子供企画版 シャーロック・ホームズの冒険

第3話
『海軍条約事件』THE NAVAL TREATY

〜封印された脇役の鑑〜

 

 この「子供企画版 シャーロックホームズの冒険」では、今のところグラナダ版を完全版とし、カットされたNHK版との比較で好き勝手なこと言っているわけですけれども、カットの真意というのは、編集した人(もしくは日本語吹き替え用の脚本家)に確認しない限りわからないわけです。単純に尺(放映時間)の問題だったのか、日本の社会倫理的に、テレビ的にマズいということだったのか、それとも他の要因だったのかは定かではないわけね。

 ただ僕は、「いずれにせよカットした理由はあるはずだ」という立場をとり、さらに恣意的に「尺の問題である」という理由を避けて論じています。というのは(NHKがカットせざるを得なかった最大の要因はおそらく「尺」に決まってるんですが)、「これこれの時間を削らなければならなかった際に、何が削られるべきと判断されたのか」を観ていくと面白いからなんです。
 もう少しだけ丁寧に言いますと、NHKが「ギリギリここはいらないだろ」と思ってカットしたであろうシーンが多数ありますけれども、グラナダは「必要だ」と思って撮っているハズです。しかもその差には、全編を通じて一貫性がなければ(NHK版が)おかしくなっちゃう。だからそのカットシーンをきちんと見て行くと、NHK版で"表現しえなかったところ"が必然的に出てくるわけです。ではその差は何なのか。これを浮き彫りにしていくことで、よりイギリスで、より当時で、より人間なホームズが見えてくると思ったんです。

 この子供企画版の前提として、グラナダが作った"THE ADVENTURES OF SHERLOCK HOLMES"が傑作である必要がある。寸分の無駄も無いという意味で。カットされたとこにも作品的な必然性があるという意味で。でもそれは残念ながら証明されていないので、逆に「カットされると、これが欠けるぜ?」ということでグラナダ版を証明したい。……いやぁ、我ながらナイスな着眼点。村で1番の知恵者かもしれない。

 ということで、そんな知恵者に乾杯! また次回!

 ってことになるとスゴイ数の苦情が来ると思うんで(来ねーよ)、ちゃんとやりますね。
 
 実は今回の冒頭はすごいんですよ。ブツブツに切られています。初めのチャプターは5回以上観たんですけども、切られ過ぎててNHK版は展開に無理がある。これを埋めるのはワトスン、ていうか長門裕之のナレーションね。NHK版では、「カットシーンによる明白な穴」を埋めるのに、常に、ナレーションという手法を取っています。
 ここの部分の場合、ワトスンが持って来た手紙を読むんですけど、その文字が女文字なんですよね。依頼人が病気なんで、代わりに女性に代筆させてることがすぐ後でわかるんですけどね、グラナダではホームズがちゃんと見抜いていた。しかし、これ、吹き替えではワトスンが言っちゃうんです。これ、すごい改変です。
 また、依頼者と三つどもえで話し合う際にも切られています。謎に戸惑うワトスンと、話を的外れな方向に持って行くワトスンのシーン。

 ということで、僕が今回発見した<差>は、当然「ワトスンの描かれ方」ということになります。グラナダでは、ワトスンに対してホームズが鋭敏であることが極めて対照的に、くっきりと浮き上がってきます。何度も観ないと手法としてわからないんですが、グラナダでは要するにワトスンが馬鹿すぎに描かれているわけです。

 逆にNHKではその辺が非常に曖昧。まぁ、長門裕之のアホっぽい声のおかげで相当に抜けた感じに仕上がっていますが、それは一見してわかる「アホっぽさ」に過ぎない。それって本質的な対照にはならないわけで、構成としては雲泥です。NHKではワトスンが比較的使える友人として描かれている。

 さて、<ワトスンの愚鈍さとホームズの鋭敏さが対照的に描かれる>というのは一般的な見解ですよね。僕も異論はありません。ただ、ワトスンがいるのは、「ホームズの鋭敏さを浮き彫りにするため」ではないと思うんです。僕が思うに、ホームズの事件の記録者として、もしくは医者として、あるいは友人として、ホームズの横にいるのではない。

 ワトスンは、<一般人>として、ホームズの横にいます。『読者』にしてみれば、1番近い思考の持ち主ですよね。ただ、それは措(お)いときましょう。つまり、「僕ら(読者や視聴者)にとって、ワトスンがいると気楽だな★」ってレベルではなく、「人間ホームズは、なんでコイツをお供にしてんのか」、という風に焦点をあてて話を進めます。

 この回でホームズはいきなり「花」についての見解を述べます。ちょっと長いですが、字幕の引用です(英語、長過ぎて聞き取れねえの)。

 

ホームズ「(依頼人に)このバラの何と美しいことか。これは何の推理も必要としない。宗教もそうです。これは神が造りたもうた精確な科学です。神が存在しているという最高の保証は、この花にこそ見られるのです。美しいものを我々に与えられるのは神。したがって我らは、花に希望をたくして生きているのです。(中略)私は花に、すなわち神に、もっともっと期待してもいいと思っているんです。しかし僕は、神ではない。」

 

 真実(神)は善いもの(=この事件の真相は楽観出来るもの)だろう、というホームズなりの見通しでしょうが、一般人には理解の出来ない唐突すぎる展開です。僕、この場面がどうして入ってるのかちょっとわからなかった。非常に高尚な内容ですが、周囲の人間には意味がわからないどころか、特に「花」の節は意味が無いとさえ言っていい。さらに、とても重要なことだと思うのですが、ワトスンも理解出来ていません
 しばらくして、カットシーンで、ふとワトスンが「大丈夫か?」と尋ねるシーンがあります。それに対し、ホームズはこう答えます。

 

ホームズ「君には本業がある。だが明日も同行してくれると助かる。」

 

 いや、助からないから、全然。記録もしてないし、話はズレてるし。ちょっと看病はするけど、それはむしろ「本業」でしょ? この台詞の意図とはズレている。このホームズが求めているのは何だろうか。どうしてコイツは1人で探偵をやらないのか。
 思うにホームズは、一般人、常識人の"推理"を見たいんです。推理とは言えないかもしれない。"反応"を見たい。なぜといってそれはホームズが切れすぎるからです。ちょっとやそっとの事件なんて、すぐに真相が見抜けてしまう彼は、その"落ち度"も知っているのではないか。

 これは少し深読みしすぎですが、見えすぎる人間の欠点とは、見えない人間に何が見えないのかがわからないということです。ワトスンはホームズの欠点を補え、しかも善良な、まさに脇役の鑑。そしてより重要なことは、ワトスンがいる限り、ホームズは欠点のある「人間」であり続けているんです。

 ヤク中の横にいるドクターってのは、そういう意味では非常に象徴的なモチーフだと思いますね。

 さて、こういう風に僕は考えるので、本質的にはワトスンが"引き立て役"になるわけがないと思っています。ここまで来て、僕なりにですが、初めて「花」のくだりが理解できてきました。「花」の説明の最後は、こう結ばれていた。

ホームズ「しかし、僕は神ではない。」

 そしてワトスンはこれを真の意味で理解しないし、理解しないからこそ"コンビ"への道が開けていくわけです。

【今日の追記1】
とても個人的な記憶なのですが、懐かしかったので追記です。

ホームズ「不気味な監視でしたが、だが大試合のスタートを待つスポーツマンの興奮に似たものがありました。」なぜかこの台詞を鮮明に覚えていました。思いがけず訪れた<観ていた実感>。

【今日の追記2】
ワトスンについて、他にも論ずるに値する重要な場面がカットされています。
この場面は、カットされたと思われる理由が複数あります。

1)ワトスンがバカ(:今日書いた内容と同じ)
2)ネタバレ(:子供企画版では御法度・NHKは証拠の一部を消す傾向有り)
3)次回(:第4話『美しき自転車乗り』)に続く    


もくじに> <子供企画トップへ> <第4話