子供企画版 シャーロック・ホームズの冒険

第8話 『ぶなの木屋敷の怪』
THE COPPER BEECHES

〜生まれる温度差(後編)〜

 

 いや、実際のところですね、社会背景的には前回の『まだらの紐』っぽい色合いが濃厚でして、個人的に当時のイギリスにかなりしょっぱいものを感じるんですけども、同じ事書いても芸が無いんでなんとなく前後編にしてみました。って言ったら怒られんのかなぁ。((誰に?

いえいえ、理由はちゃんとありますよ〜。(取って付けたように)
 
 この回もね、ホームズとワトスンのかなり長いやり取りがカットされてるんだよね。で、各回でカットされまくっている"冒頭"部分で何がおこってるのかというとさ、ホームズとワトスンの「温度差」が如実になっていくんです。ただ僕は、登場人物達の表面的な確執をそう呼んでるわけじゃないんです。僕が「温度差」と表現している事を端的に言うと、<科学と文学>です。

 登場人物ホームズと登場人物ワトスンの「温度差」は、前回目立ったような道徳観だけではなく、もっと具体的な、パートナーとしての仕事に対しても際立っていきます。いや、もはや温度差とは言えない対立があるんですね。それは、推理するホームズと記述するワトスンの対立です。ま、有名と言えば有名な話なんですがね。僕なりの視点でまとめておきます。

 

 そもそもこの2人は、事件に関わっていく目的が違ってます。ホームズは推理(rogic)を自らの力で立てていき、真実と照らし合わせて証明する事を無上の(ていうかコカインに変わる)楽しみにしている。一方、ワトスンはホームズに記述を頼まれており、『シャーロック・ホームズの冒険』として作品化し、ホームズの名声を高めることを目的としている。
 ただ、文学的な素養があるワトスンは、ホームズに言わせると「取るに足りない表現にも大きな喜びを見い出す」「芸術自体を愛する者」であり、脚色や美化によって推理を歪めるキライがある。ホームズが求めるのは「原因から結果への推理過程のみ」。だから、そこに対立が生まれるのは当然ですらある、とも言えます。ホームズが<科学>、ワトスンが<文学>です。(僕は総じて"ジャンル分け"ってのには意味がないと思ってんですが、こういう認識を持っとくとわかりやすいかな、と。)

 ここまではいいとしてですね、ここからよくよく考えると、登場人物としての<記述者-ワトスン>の「目的」は、かなり自己中心的なものだとわかってくる。というのも、ワトスン自身は、読者を広げて「ホームズ」を認知させている自分の仕事を誇りに感じているものの、依頼人のはずであるホームズはこの「業績」を完全に否定してるんです。ホームズの依頼は厳密で客観的な記述なんですが、ワトスンはかなり情に、主観に寄っていってるわけで、ワトスンの目的はホームズからするとズレているんです。

 今回のレポートはわかりにくいかもしれませんけど、要は、この確執に相当な意味があると僕は考えています。
 
 ちょっと今回の話に戻りますけども、なんで冒頭でいきなりワトスンに怒鳴ってんのか。ま、おそらくはヤクが切れてんでしょうけども(苦笑)、話の筋から言うと、こうです。
 前回と同様、この回の事件も当初はおそろしく些末でくだらない、「オレってば、『探偵物語』の工藤ちゃんじゃないんだからねッ!」(ホームズ)とでも言いくなるような案件として依頼されます。もうね、ホームズの態度なんて最悪すよ。依頼人の前でチラッと手紙を読み返し、私の得意分野じゃないようなんだけど、て言って、手紙を放り投げる。そしてあさっての方向を向き、明らかに「やる気無い感じ」を演出するんです。依頼人の体験している「奇妙な話」にはもちろん興味津々で耳を傾けますが、それが終わるや否や退席を促す。依頼人は(当然)ワトスンとしか握手を交わさない。この辺りの細かすぎる演出もなかなかナイスですね。依頼人は情がわかるワトスンにしか伝わってないと考えて、握手を制限するんです。

 さて、そんなわけで、ホームズが欲しているのは「正義」に達するということではなく(正義感はあるけど)、自分の理知を働かせる事が出来る事件以外にはあり得ない。「紳士」がそれを絶妙に隠してるんでかろうじてヒーローたりえてますけども、彼にとってくだらない事件が集まって来る事はやはり許せないというか、耐えられないわけです。

 冒頭のカットシーンに戻りましょう。ワトスンの「作品」をこき下ろしているヤク中探偵に腹を立てたワトスン。僕だったら絶交してますけども、お茶目なワトスンは憤りながらも認めてもらおうとする。

ワトスン「でも君の名は売ったよ」
ホームズ「どんな読者にだ。どうせ観察眼などない連中だ。歯形で織工を見分けられずに、分析や推理のアヤが分かるものか!」

 この手の確執は以降、ことあるごとに起こり、「また夫婦喧嘩してるぅ〜」と思わせがちですけども、今回カットされている部分の指摘はかなり辛辣です。決定的な「溝」と言ってもいい。ですが、僕は、ストーリー展開上のお約束であるとか、2人の関係を表現するための対立であるとか言いたいわけではありません。
 核心に触れる前に言っておくと、ドイル作の『シャーロックホームズの冒険』が発表された順番と、ホームズが事件を解決した順番にはかなりの移動があります。さらに、原作とこのDVDの収録(グラナダ)順もバラバラ。が、僕が観ているDVDを一連のものとして捉えてみた場合、この回でのこの指摘には、かなり特殊な意味合いがあると思えたんです。
 
 これはあくまでも推理にすぎませんが、グラナダ版で出てくるホームズとワトスンの時に微笑ましいまでの「対立」はですね、あえてドイルが書きたかったこととまでは言いませんが、おそらくは<ドイル・探偵 vs ワトスン・読者>だろうと思うんです。

 僕にはドイル探偵の声が聞こえてきます。

ドイル「ストーリー、トリック、推理を含んだモチーフ、演出、人物、感情、文学を求める読者であるお前らはいろいろ言いたがるだろう。しかし、そのどれもが実にくだらんのだよ。火サスのどこが面白いんだよ」と。

 ホームズに皮肉を言われてそれに気付かないワトスンを僕らは笑えないと思うんです。理性ですよ。ドイルが軸にしたのは他ならぬ理性。普段見逃している日常の中の必然性、これを見いだす科学。この「科学」を作品で実現させようとしている。

 だから、ワトスンが糾弾される。

 ワトスン作の『冒険』を超越しているのはホームズとドイルだけ、ということです。

 ……ね。わかりにくいよな〜今回は。

【追記】

えっとですね、すごい難しげなこと書いた後でなんですが、今回の依頼人は俗に言う「萌え」でしたね。「美しき自転車乗り」なんか目じゃない! で、どういったところに惹かれたのかというとね! すごい理不尽な状況に追いつめられている所。ということで自分の"ドS疑惑"が急浮上。


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